小説 【呪文堂】

呪い(まじない)は「真実」にあらず。されど、「事実」になり得ん。

呪小説・其の参【地蔵菩薩儀軌・他福の術】

 

序章

弥生。

葬儀の日は雨だった。

どうしても抜けられない用事の為、通夜は遠慮させてもらったが、葬儀には参列させて頂くことにした。

斎場の入り口で、深海美夜子が待っていてくれた。

黒いスーツをまとう美夜子は、いつもよりも大人びてみえた。

昨晩泣き続けたのだろうか、彼女の眼は少し腫れていた。しかし、さっぱりとした顔をしていた。いつものように、いや、いつも以上に、美しかった。

彼女が担当していた利用者が、一昨日に亡くなったのだ。

今日は、その葬儀。

参列者は少ない。

利用者の親族と思われる人たちが三人。

それと、美夜子とその上司の施設長、そして私だ。

親族と思われる面々は、終始黙っていた。しかし、彼らは美夜子に対し敬愛の念があるようで、彼女に随分と丁寧な接し方をしていた。

それは、まあそうであろう。

美夜子は、本当に、その利用者のために尽くしたのだ。

その利用者の、人生最後のその瞬間まで最善を尽くした。

そう、文字通り、最後の瞬間まで、だ。

そのことを親族は知っているのだ。

美夜子は「呪文堂」主人から伝授された呪法も、全うした。

その証拠に、美夜子は悔いのなさそうな、さっぱりとした良い顔をしている。

そんな美夜子の顔を見て、親族たちも安心したはずだ。

利用者は、おそらく苦しむことなく往生できたのだ、と。

 

精進落としも終わり、間もなく散会となった。

全くの部外者でしかない私は、本当であれば焼香のみで失礼しようと思っていた。

しかし、親族の方に是非と引き留められ、最後まで残ってしまった。

今日は仕事も入っておらず暇だったし、なにより美夜子の傍に居たい、という気持ちが強かった。そんな思いもあって、私はずるずると居残ってしまったのだ。

仏さまには申し訳ないが、終始、私の関心は美夜子にあった。

美夜子は、もうすっかり元気を取り戻したようで、その瞳には以前の強い光が宿っていた。もう、大丈夫。なんの心配もいらない。

 

散会ということで、私は親族と施設長に挨拶をしたのち、美夜子に声をかけ、帰ることを告げた。

「あ、先生、お帰りですか? お仕事のお忙しい中、すみませんでした」

と美夜子が言うので、私は、全然忙しくない、事務所に居てもやることがないのでむしろ参列させてもらってよかった、といったことをごにょごにょ話した。

「先生、今日はお忙しくないんですか?・・あの、もしそれが本当でしたら、その、少しだけお時間を頂くことは、出来ますでしょうか?」

と、美夜子が顔を赤らめて言った。

「も、もちろんです、いくらでも。時間は、いくらでもあるのです」

と、私は慌てて言った。美夜子は嬉しそうな顔をして、

「ありがとうございます。私、今日はもう施設に戻ったら終わりなんです。先生、私、一度施設に戻ってから、先生の事務所にお伺いしてもよろしいでしょうか?」

というので、私は、

「いや、よろしければ一緒に施設まで行きましょう。そのあと私は喫茶店でお待ちしますので。その方が時間を短縮できるし、楽でしょう」

と答えた。私のむさくるしい事務所に美夜子を招き入れるはどうかと思ったのと、施設近くの喫茶店の、あの美味しい珈琲が飲みたくなったからだ。

「本当ですか?嬉しいです。そうして頂けるととても助かります!ありがとうございます! 」

そう言って美夜子はぺこりと頭を下げた。

いや、嬉しいのは私の方に決まっているのだが。

 

芳しい香りの珈琲が運ばれてきた。

店主がひとりでやっている小さな喫茶店「白沢(はくたく)」。

美夜子が勤める高齢者施設の近くにあるため、最近ちょくちょく訪れる。

店主は、とても柔和で優しそうな顔をした男である。

歳はおそらく私よりも上。四十二、三か。 

口下手な私でさえも話をしてみたくなるような雰囲気を纏っている。

そして、なによりも、とても旨い珈琲を淹れてくれるのだ。

甘く爽やかで辺りを包み込むように広がる芳醇な香りを、身体中に取り込むように吸い込んでから、漆黒の液体を一口含む。

強すぎない酸味。濃くて深い苦味。その苦味のなかに仄かな甘味が感じられる。

うまい。

思わず、呟いてしまう。

美夜子に逢う前の緊張を、優しくほどいてくれる感じだ。

もっとも美夜子が現れてその顔を目にしたとたん、私は緊張でふるふると震えてしまうのであるが。

そんなことをぼうっと考えていたら、カロランと 喫茶店のドアの鐘が鳴った。

瞬時、私の体は硬直する。

「先生!ごめんなさい!お待せしました!」

旨い珈琲の魔法も、美夜子の前では無力なのだ。

 

 私がううだのええだの苦悶している間に、美夜子はするりと私の前の椅子に座った。

テーブル越しに見る美夜子は、息を飲むほど、美しかった。

先程の黒いシックなスーツから、白いふわふわしたセーターに着替えている。髪の毛はポニーテールにまとめ、なんとも愛らしい。

これで緊張するな、という方が無茶な相談だ。

・・そうとも、万有引力のようなものなのだ。全てのものは重力に支配される。重力から逃れることはできない。

そして、全てのひとは美しいひとに、やはり支配される。

つまり、美夜子に接することで私が緊張するのは、ごく当然の理なのである。なんら、驚くに値しないのだ。

・・よろしい、ならば大いに緊張しようではないか!

そんな妙な理屈を私が頭のなかでこねくり回しているうちに、注文を終えた美夜子が私を見て口を開いた。

「先生、お時間を頂きましてありがとうございます。・・実は先生にご相談したいことがあって」

美夜子は少し声を落として、少し前屈みになりながら言った。

プライベートな相談、ということなのであろう。

美夜子が少し前屈みになった分、私と美夜子との距離が縮まった。

甘い香りが鼻孔をくすぐる。

ばくばく鳴る心臓の音が美夜子に聞こえてしまうのではないかと、私はそんな心配をしてしまう。

もちろん、美夜子は私の心配などお構いなしに、甘い香りを漂わせながら話始めた。

以下は、私が美夜子から聞いた話を要約したものである。

 

美夜子は、夜中の二時半頃になると叫び声をあげる利用者に対し、呪文堂から教わった「不動断末魔の大事」の呪法を、懸命に施したのだそうである。

そう、毎日その利用者に寄り添って、慈救咒(じくのしゅ)を印を結びながら一日九回、呪法を成し上げたのだそうである。

四日目からは一日五回ほどに回数を減らしつつも、毎日毎日利用者の傍らで、美夜子は呪法を成し上げた。

やがてその利用者は叫び声を上げなくなったのだそうだ。

その後も、美夜子は毎日毎日、その利用者の傍らで、「不動断末魔の大事」の呪法を続けた。

決して大きな声ではなく、むしろその利用者のみに届くくらいの小声で、美夜子はその呪法を唱えたという。

唱える場所がその利用者の個室であったとはいえ、他の利用者などの迷惑にならないように、美夜子は注意を払ったのだ。

しかし、同僚の施設職員に、呪法を唱える姿を目撃されてしまった。

同僚からの報告を受けた施設長は、美夜子を問いただした。

美夜子は施設長に謝罪しつつも、利用者が夜中に叫ぶこと、呪文堂のこと、呪文堂から教わった呪法のことなどを詳細に説明した。

その利用者が真夜中に叫び出すことを従前から知っていた施設長は、美夜子が呪法を施すことで利用者が叫ばなくなったことに驚いた。

そこで、利用者の親族に説明し了承を得ることと、他の利用者に見聞きされないよう注意することを条件に、施設長は美夜子がその利用者に呪法を施すことを承認した。

美夜子からの連絡を受けて施設を訪れた利用者の親族は、以前よりも柔和な表情になった利用者の顔を見て、すぐに美夜子の申し出を了承してくれたそうだ。

呪法の効用の真偽はともかく、美夜子の利用者に対する献身的な態度に、親族たちはとても感動してくれたそうだ。

親族と施設長の了承を得た美夜子は、非番の日でも施設を訪れては、呪法をほどこしたのだという。

美夜子が細心の注意を払ったため、他の利用者やその関係者に、美夜子の呪法が知れることはなかった。

しかし、施設職員の間では、美夜子の呪法は評判になった。

もともと、その利用者の真夜中の絶叫は、職員の間で有名だったのだ。

その「真夜中の絶叫」を治め、鬼気迫るような利用者の表情を柔和なものに変えた美夜子の呪法は、職員たちの間で「神秘」のように思われたらしい。

 

そんな折に、美夜子は同僚の森沢綾香(もりさわ あやか)から、相談されたのだという。

「呪文堂を、紹介してほしい」と。

そこで美夜子は森沢綾香に対し、自分も紹介してもらった身であるので、呪文堂を紹介してくれた方に確認してみる、と約束したのだそうだ。

その約束をした日の午後、美夜子の利用者が眠るようにして息を引き取った。一昨日のことだ。

その後、亡くなった利用者の対応で美夜子は忙殺され、森沢綾香との約束、つまり呪文堂を紹介することについての私への確認が、今日になってしまったというわけだ。

 

私は美夜子に尋ねた。

「・・なにも私に確認をとる必要などないとは思いますが・・ただ、その、森沢さん?森沢さんが呪文堂を紹介してほしいという理由などは、お聞きになったのでしょうか?」

美夜子は首を横に振った。甘い香りが強くなる。

「ごめんなさい。そのことはまだ聞いていないんです。それで先生、実は・・」

と美夜子が言ったところで、カロランと 喫茶店のドアの鐘が鳴った。

 

「はじめまして。森沢綾香です」

すらりとした女性が我々のテーブルの前に来て頭を下げた。私は慌てて立ち上げり、頭を下げた。

「あ、国分坂です。どうも」

美夜子も慌てたように立ち上がり、私に向かって頭を下げた。

「先生、ごめんなさい! 綾香さんが直接先生にお話お聞きしたいって。わたし、それについてのお願いを先生にするところだったんですが・・ごめんなさい綾香さんも。丁度いま、国分坂先生にお願いをするところだったんだけど。わたし、話が下手で遅いから・・」

「みよちゃん、わたしこそごめん。わたしせっかちだからすぐ来ちゃったの。国分坂先生、申し訳ございません。実は、深海さんから国分坂先生のことをお聞きしまして。突然のことで本当に恐縮なのですが、相談に乗って頂いてもよろしいでしょうか?」

森沢綾香は再び頭を下げた。そのとなりで美夜子もぺこりと頭を下げている。

私は慌てて二人に座ってもらうよう促しながら言った。

「いやいや、もちろん大丈夫ですよ。私なんかでお役に立てるのなら、是非ご相談ください。呪文堂のことでしょうか?」

私が言うと森沢綾香は頷いた。

美夜子が白ユリなら森沢綾香は紅のバラか。美夜子とはまた違う華やかな雰囲気を身にまとっている。

 そこにマスターが水を置きに来た。森沢綾香はマスターに対しにこりと頷き、マスターも頷き返した。ぴったりと息があったようなやり取りだ。どうやらそれで注文が成立したらしい。森沢綾香は、おそらくここの常連客なのであろう。マスターも、森沢綾香に溢れるような笑顔を与えている。

しばらくすると、マスターが森沢綾香のために珈琲を運んできた。素晴らしい香りが一瞬、あたりを制する。

 

マスターが去るのを見届けてから、私は森沢綾香に言った。

「呪文堂のことをお話すれば宜しいのでしょうか。・・呪文堂、私も偶然見つけただけなんですがね。なんといいますか、不思議な雰囲気の店でして。いや、店というかなんというか。店ではないのかなあ。呪いの方法を教えてくれるのですが、費用を請求しないのです。ケースによっては請求することもあるのかなあ。少なくとも、私も深海さんも請求されていないんですね。それでまあ、自分の困りごとを話すと、それに見合った呪いを教えてくれる、そんなところなんです」

私の要領を得ない説明を、森沢綾香は頷きながら聴いてくれた。そして言った。

「もちろん費用はしっかりとお支払いするつもりです。・・自分の困りごとを整理して話す必要があるんですね?」

「いやあ、整理する必要はないと思いますが・・私などは、整理して話すなんてことが苦手で、上手くできたためしがない」

私の言葉に美夜子がくすりと笑い、そして慌ててぺこりと頭を下げた。

その様子を見て私も笑った。そして言った。

「いや、本当に。司法書士だというのに全く情けない限りです。そんな私の話でも聴いてくれたので、その点は心配ないと思いますよ。しかしまあ、呪いですからね、効用があるんだかないんだかは、なんとも言えないのですが」

私の「効用」という言葉に、森沢綾香は反応した。

「その点はわたし、信じている、いや信じたいんです。そう、信じたいんだと思います、わたし。でも、信じてしまっていいものなのか。こんなことをお聞きするのは無茶だと思うのですが・・国分坂先生のご意見をお聴きしたくって」

森沢綾香は私を見つめた。強い視線だ。私は逃げ場を失ったような心持ちになり、思わず美夜子を見た。

美夜子はにっこりとほほ笑んで言った。

「先生、先生は私に呪文堂さんをご紹介してくれました。わたし、そのおかげで本当に、本当に先生のお陰で救われたんです。先生、どうして先生は私に、呪文堂さんをご紹介してくれたんでしょうか?」

なるほど。私が美夜子に呪文堂を紹介した動機。

言い換えれば、美夜子が危機的状況に陥った中で、どうして私は呪文堂を頼ろうとしたのか、ということだ。

呪いなどという、非科学的なものを信頼したのはなぜか、ということだ。

その答えがすなわち、森沢綾香の求める解に繋がっている、と美夜子は私に教えてくれたのだ。

私は美夜子に向かって頷いてから、森沢綾香に言った。

「・・うまく答えらえるかどうか、心配ではありますが。ええっと、そうですね。つまり、ある事象について原因を明確にしたいとか、合理的な説明を求めたいということではなくて、不安を解消したい、精神的に楽になりたい、楽にしてあげたい、という場合においては、呪文堂の方便は有効だ、と考えたのだと思います、私は」

「不安の解消、ですか」と森沢綾香は呟いた。

私は頷いた。

「そうです。ある事象に対し、その原因を追求するのではなく、その事象から生じる不安を解消することを目的としているように思います。不安を解消するために、単純化された作業を繰り返し繰り返し行う。作業を繰り返し、作業に没頭しているうちに不安が薄れていく。やがて不安を忘れてしまう。どうやらそれが呪いであると、私は理解しました」

私の言葉に美夜子がこくこくと頷いてくれる。激しく同意、ということなのであろうか。

森沢綾香も頷いたが、少し首を傾げるようにしてから言った。

「分かるような気が、します。いえ、分かるような気はするんですが、そうすると呪いの効用は、自分自身の不安解消でしかない、ということになりませんか?」

私は頷いた。

「ええ、おそらくそうでしょう。呪いは、おそらく自分自身への心理療法のようなものではないでしょうか」

私の回答に納得できないように、森沢綾香は首を横に振った。

「でも。みよちゃん、深海さんのご利用者様は叫ぶのをやめたんです。表情も別人のように優しくなりました。深海さんが行った呪いが、深海さん自身への心理療法でしかないとは、到底思えませんわ」

なるほど。美夜子の呪いが利用者を変えたのでは、という問いか。

私は頷きながら森沢綾香に言った。

「なるほど。実に難しいですね。私もそれに関しては確信をもって答えることはできないのですが・・悩みが自分自身のなかで自己完結するものであれば、呪文堂の方便は一定の効果を発揮できると思われるのですが、他者との関係性のなかにあるものならば・・果たしてどうでしょうか。深海さんのケースはモデルになるのか、それとも偶然なのか・・」

美夜子がちょっと手を挙げるような仕草をしてから言った。

「あのう・・ごめんなさい。横からすみません・・少なくともわたしは先生のおっしゃる通り、お呪いを行うことで、わたし自身がすごく楽になったのを覚えてます。どうしていいのか分からなかったところに、取り敢えず行うべき作法を示して頂きました。それを行うことで本当に気が楽になって。わたし救われたんです。もしかしたら、介護者であるわたしの心境の変化が、ご利用者様に良い影響をもたらした、ということはないでしょうか?」

おそらく、ありうる話であろう。身近にいる介護者の心理状況が被介護者に心理的影響を与える。たとえば親と幼児との関係においては、とても顕著な事象であろう。介護者と高齢者との間でも、同じようなことが起こることは十分に考えられる。

更にいえば、かなりSF小説めいた話になるが、母親の脳と赤ん坊の脳とは、なんらかの形で繋がっているのでは、といった文章を読んだことがある。赤ん坊が泣く前に目が覚める、赤ん坊が空腹を感じたり便意をもよおすのが事前に察知できる。単なる経験則では説明しずらい事象が、母親と赤ん坊との間で起こっている可能性があるのだそうだ。

もしもそのようなことがあるとして、しかもそれが母親と赤ん坊との間以外でも起こりうるものだとしたら?

もしかして、美夜子とその利用者との間で起こっていたとしたら?

たとえば美夜子が呪いをすることで、美夜子の脳内で情緒を安定させる脳内物質が放出され、同時に、美夜子となんらかの形で繋がった利用者の脳内でも、同様の物質が放出された。そのため、その脳内物質が利用者の情緒を安定させた、という可能性は、ありうるのだろうか?

私は頷きながら美夜子を見ていった。

「可能性は、あるかもしれませんね。・・あくまでも仮説でしかありませんが、ある一定の者との間では、呪いの効果が直接的に発揮されるケースもあるのかもしれない」

私はそこまで言ってから、今度は森沢綾香の方を見ていった。

「森沢さん、失礼ながら森沢さんのお悩みは、どのようなケースのものなのでしょうか?ケースによって呪文堂の呪いがある程度効果をもたらすものと、全く無効なものとがありうるように、私には思えてきまして。あ、いえ、もちろんごく簡単に概略だけで結構です。いや、ごめんなさい、無理してお話しいただく必要は、もちろんないのです」

私が言うと、森沢綾香は微笑んで言った。

「ごめんなさい。最初にそれを、国分坂先生にお伝えしなければいけませんでした。もちろん、聴いて頂けたら助かります。ただ・・」

と森沢綾香は言葉を切り、ちらりと奥のカウンターの方に視線を移してから、言った。

「あの、もしも失礼でなければ、お食事をしながらででも宜しいでしょうか?わたし、実は朝から何も口にしてなくて」

そういうと森沢綾香はちょっと舌を出した。隣で美夜子が慌てている。

「ごめんね!綾香さん!わたしと施設長が抜けてたから、お昼もとれなかったのね!ごめんなさい!」

「ちがうよ、みよちゃん。ちょっとタイミングを逃しちゃっただけよ。それより駅前のピザ屋さんはどうかな?国分坂先生、ピザはお好きですか?」

私は壁掛け時計をちらちと見た。もう夕方五時だ。急に空腹を感じた。

「はあ、大好物です」

「よかった!みよちゃんはもちろんOKよね?」

「わたしもお話聴いてもいいの?」

「もちろんよ!みよちゃんにも聴いてほしいの。大丈夫?」

森沢綾香の言葉に美夜子は嬉しそうに頷いた。

私たちは駅前のピザ屋に移動することになった。

 

窯焼きピザは絶品だった。グラスワインもうまい。美夜子はほんのふたくち程しか飲んでいないのに、顔を真っ赤にしている。

森沢綾香はすでにグラスを空けているが、表情に全く変化はない。少しもの足りなさそうな感じすらするが、おそらく遠慮しているのだろう。

私もワインは一杯でやめておいた。いや、もう充分だ。これから大切な話を聴かなくてはならないのだから。

森沢綾香はナプキンで軽く口を押さえるようにしてから、話始めた。

「実は、ある人のことなんです・・その方には奥さまがいらっしゃったのですが、一年ちょっと前に、病気で亡くなられて・・奥さまが亡くなられてからしばらくの間、その方、随分と落ち込んでいらっしゃいました。・・でも、半年ほどしてから、少しずつ元気を取り戻したようにみえたんです。でも、奥さまの一周忌が過ぎた辺りから、また様子が変になってしまって。なんというか、心が空っぽのような感じで。いつも微笑んでいらっしゃるのだけど、よくよく見ると、瞳の奥が空洞のようで」

「生気の無いような?」と私は思わず口を挟んだ。

森沢綾香は頷いた。

「ええ、そうなんです。そう、生気のないような、魂が抜けてしまったような、そんな瞳なんです」

私は頷いた。私も知っている。そのような瞳を。

そう、そのとき私は、呪文堂を頼ったのである。

森沢綾香は続けた。

「その方と奥さまの間には、お子さんもなかったから。その方、ずっと一人なんです。奥さまが亡くなられてから、ずっと」

森沢綾香のとなりで美夜子が頷いた。今はすっかり活き活きとした瞳を取り戻した美夜子が、森沢綾香に向かって言った。

「綾香さんの大切なひとなのね、その方」

美夜子の言葉に、森沢綾香は少し慌てたようにして言う。

「もう!みよちゃんたら!いきなり核心を突くんだから!・・ええ、そうよ、私はその方を大切に思っているわ。・・まあ、憧れのような感じかしらね。なんとか力になりたいと思っているの」

「ごめんね、綾香さん。そうか、綾香さん、あのひとのこと、好きなんだね」

美夜子の言葉に森沢綾香は顔を赤くする。

「もう!みよちゃん!直接すぎるのよ!・・たしかに、まあ好きなんだけどね・・でも、わたしなんかじゃたぶん、駄目なんだと思う」

「どうして?」

「だって。年も全然離れているし、前に一度だけ奥さまの写真を見せてもらったことがあるんだけど、奥さま、すごく落ち着いた感じで優しそうなひとだった。すごく、素敵な感じだったの。・・わたしと全然違うの」

「年なんて関係ないよ。それに綾香さんだってとっても優しいし、とっても素敵だよ。ねえ、先生?」

突然振られた私は、こくこくと首を上下させた。

「え、ええ、素敵ですよ」

私の馬鹿げた応答が滑稽だったのか、森沢綾香は吹き出した。

「もう、国分坂先生ったら。・・でも、ありがとうございます。ああ、わたし、たぶん、分かんなくなっちゃったんですね」

森沢綾香は、少し俯いて言った。私は先を促すように訊ねた。

「・・分からなくなってしまった?」

森沢綾香は頷いた。

「ええ。わたし、本当にその方のことが心配で、その方がどうすれば元気になれるか、本気でそう考えているんです。その方を支えてくれる人が必要なんだと思うんです。でもたぶん、それはわたしじゃない。わたしのような人間ではなくて、もっと落ち着いた大人の女性。たぶん、そうなんです。・・でも、わたし・・みよちゃん、美夜子さんがいうとおり、わたし、その方を好きになってしまったんだと思います。・・そんなの、間違っているのに」

森沢綾香の言葉に美夜子が首を強く横に振った。

「間違ってなんかない!間違ってなんかないよ、綾香さん!そんなに心配して、そんなにその人のこと大切に思っていて、好きになって当然だよ!」

美夜子は強い光を宿した瞳で森沢綾香を見つめ、言い放った。

森沢綾香は、あははっと嬉しそうに笑い、言った。

「みよちゃんのそういうところ、好きよ。でもね、やっぱり、そんな単純じゃないと思うの。その方のことを考えれば考えるほど、わたし、自分が分からなくなるのよ」

森沢綾香の言いたいことは、解る。頭で理論的に考え出した解答と、自分の心の中に宿る答えとが、食い違っているのだ。

どちらを選ぶべきか、彼女は心底悩んだのであろう。しかし、その回答を得られずにいるのだ。

美夜子の言うことも一理ある。それだけ想っているのであれば、まずはその気持ちを相手にぶつけてみよ、ということだろう。たしかに、やってみなければ、わからない。

同時に、おそらく森沢綾香が心配しているであろうことも、解る。自分が下手に動くことで、相手の最善の未来を奪ってしまうのではないか、と。

私は思わず言ってしまった。

「その方は幸せです。森沢さんのような素敵な方から、そんな心配をされるのだから」

美夜子も大きく頷いて言った。

「本当ですよね、先生。綾香さん、そんなに素敵なんだから、もっと自信を持つべきだと思うわ」

森沢綾香は顔を赤らめて目を丸くしたが、美夜子の方を見てニヤリと笑った。

「あら、みよちゃん、言うじゃない。そういうみよちゃんだって、同じじゃない?あなたも自信を持って攻めるべきよ」

森沢綾香が美夜子に逆襲をしたようだ。今度は美夜子が顔を赤くして目を見開いている。

そうか、どうやら美夜子には想いを寄せる人がいるらしい。

私は思わずため息をついてしまった。

「え、先生、どうしたんです?」

私のため息に美夜子が反応して訊ねた。

私は慌てて言った。

「ああ、いや、その、羨ましいものだなあと思いまして・・あなた方のような女性から、なんというか、その、想いを寄せられるひとがいるんだなあと・・」

私がしどろもどろに答えると、森沢綾香があははっと笑った。

え?なにか間違えたのだろうか?

美夜子を見ると、さっきよりも真っ赤になって、心なしか目を潤ませているように見える。まさか、泣いてしまうのか?・・まずい、私は大失敗したのか?まずいことを言ってしまったのか?

私はすぐに美夜子に頭を下げて、

「ごめんなさい!失礼なことを言いました。すみません!」

と謝罪した。

美夜子は、ますます赤くなって黙りコクっている。

森沢綾香は、笑うのを堪えるように、両手で顔を押さえて震えている。

私は、呆然とするばかりだ。どうしよう、どうしようと、おどおどしている私に、森沢綾香がようやく声をかけてくれた。

「もーっ、国分坂先生、そんな大丈夫ですよ。ねえ、みよちゃん。いえ、ごめんなさい、笑ってしまったりして。もう、二人とも最高すぎです」

二人とも?誰と誰のことだ?最高?なにが?

そんな私の疑問が取り上げられることなく、森沢綾香は続けた。

「えーっと、話が脱線しちゃってごめんなさい。わたしの悩み、呪文堂さんに聞いてもらっても良いものでしょうか?先程お話しした通り、自分でも、ちゃんと整理できていないのが心配なんですが」

そうだ、頭で得た解答と、心から沸き上がってきた答えとの解離。

それが、彼女の抱えている問題だ。

仮にこれを論理的に解釈してみたところで、強引に形式的な整合性を取り繕うだけであり、納得できる解決には至らないであろう。

たしかに、これは呪文堂主人の出番なのかもしれない。

そう思いながら、ちらりと美夜子の方を見た。

まだ赤い顔をして、じっとこちらを見ている。・・どうしよう。

ふと壁に掛けられた時計に目がとまった。丁度、夜七時。

私は思わず言った。

「あ、あの、どうでしょう。ここからだと一時間ちょっとで呪文堂に行けます。あの、お二人とも、もしもお時間があれば、その、どうでしょうか、ものは試しでちょっと行ってみませんか?森沢さんのご心配は、もしかしたら、呪文堂むきかもしれません」

森沢綾香は「いいのですか?本当に?是非お願いします!」と言ってくれた。

美夜子はと見ると、潤んだ瞳でこちらを見つめ、そしてコクりと頷いてくれた。

まずはよかった。歩いているうちに、気分を切り替えてくれるかもしれない。

・・万が一の場合には、こっそりと呪文堂主人に相談してみようか。

怒らせてしまった相手の怒りを、どうにか静める呪いはないだろうか、と。

 

【呪文堂】

おお、あなたさまでしたか。さあさ、どうぞどうぞ。

今宵は、お三方で。大勢のお越し、嬉しい限りでございます。

ささ、こちらへ。こちらの奥へ、ご案内いたしましょう。

奥に少し広めの部屋がございましてな。

こちらです。さあ、どうぞ。

 

今宵の主客は・・あなた様ですね。では、どうぞこちらにお座りください。

前回お会いしましたあなた様は、隣の、ええ、そちらにどうぞ。

そして、あなたさま。はい、こちらへ。どうぞお座り願います。

 

・・我が呪文堂主人にございます。ようこそお越し下さいました。

さてさて。

実のところ、お客様のお名前を尋ねることは、通常なるべく自重しておるのですが。

今宵は人数がいらっしゃいます。「あなた」だけでは、少々やりにくい。

そこで恐縮ではございますが、よろしければお名前を、我がどのように皆様をお呼びすればよろしいかを、お教えいただければ幸いにて・・

・・いえいえ、頂きますお名前に、我、決して邪な心を起こしたりはしませぬことを、しかと八百万の神々に誓いますゆえ。ええ、信じて下され。

 

おお、ご丁寧に。お挨拶頂き、恐縮。

国分坂、二郎様、でしたか。では、国分坂様、あ、国分坂様とお呼びしても?ありがとうございます。

では国分坂様。国分坂様はもはや我が庵の常連。我に至らぬ点がございましたら、話に割り込んで頂いて結構。いえむしろ、話にお入り願いたい。どうぞご指導を。

深海美夜子様、ですね。再度のお越し、誠に光栄に存じます。深海様とお呼びしても?ありがとうございます。

森沢綾香様。はじめてお目にかかります。呪文堂主人にございます。では、森沢様、とお呼びしても宜しいでしょうか?・・ありがとうございます。

 

皆様のお名前を頂き、光栄に存じます。 先程の誓い、しかと守りますゆえ・・

 

では早速、お話をお聴かせ願いましょうか。

どなたからお話頂いても、結構です。お話されたい事柄から、お話しやすい順序にて、お話頂ければ結構なのですよ。

今宵の我が庵への来訪は、おそらく皆様方のみでしょう。

そう、時間はたっぷりございます。

どうぞ、ゆるりとお話頂ければ結構なのです。

どちらからお話頂けますかな?

・・わかりました、森沢様。では、森沢様、お話お聞かせ願いましょう・・

 

・・なるほど、なるほど。

左様で。ふむ・・・

 

・・森沢様。そして国分坂様、深海様。

最初に我より、少しご説明を差し上げたいことがございますが、よろしいでしょうか?

俗にいう、「恋愛成就の呪い」、についてです。

想いを寄せる相手に対し呪いを発し、その相手をこちらに振り向かせる、そんな呪いが巷にはあるとも聞きます。

更には、思いを寄せる相手に恋人伴侶がいるときに、その縁を断絶し、こちらとの縁を結び直す、そんな呪いすらあるとも聞きます。

・・これらは、左道。

呪文堂主人は、これらの呪いを邪な道として唾棄するのです。

自らの欲望のままに、他者の命運を右に左に動かそうなどというのは、穢れた企て。

ましてや、睦まじき者達の縁を切り、こちらと結び直そうなど、もはや狂気の沙汰。

呪文堂主人は、そのような企てに助力する術は持ちませぬ。

呪文堂主人は、邪な呪いを施すことは、金輪際できませぬ。

呪文堂主人が助力できるのは、清き言の葉を運ぶ術をご伝授差し上げることくらい。

そう、「恋愛成就の呪い」などは、我が庵にはご用意がありませぬ。

 

但し。

但し、「恋愛成就」は叶いませぬが、「純愛献身」を、お手伝いする術はあるかもしれませぬ。

「純愛献身」。

つまり、想い人に対して自らはなんらの見返りも求めず、ただその方のためだけを想い、身を捨てて、その方のために行う呪いです。

自らの欲得のためではなく、その想い人の為だけを願う呪い。

その方の幸福を願い、自らはその幸福の埒外に置く呪い。

たとえば、その方が素晴らしき伴侶を得られるようにと、自らは遠く離れて孤独のまま、ただひたすらに呪いを唱え続けていく。その方が最高の伴侶を得られるよう、自らの身を磨り潰して呪いして生きていく。

それが「純愛献身」。

 

・・森沢様。そのような呪いを、唱えることができましょうか。

国分坂様、深海様。我がご用意できる呪いは、そのようなものに過ぎぬのです。

・・さてさて、如何なものでしょうか。

 

・・よろしいのですか、森沢様?本当に?

想い人を得たいというのは、ひととして当然の願い。

想い人をどのような手段を用いてでも振り向かせたい、ということは、ひととして当たり前の願望なのです。

ただ我は、それに呪いを用いることは禁忌、と申したまで。

なにも呪いではなく、他の手段を用いて想い人を振り向かせてみたらよろしかろう。

なにも、自らの想いを捨て去ってまで、その方のために呪う必要はないでしょう。

 

・・もともと、そのつもりだった、とは?

・・ふむ。

もともとその方の幸福のみが、森沢様の願いであった、と。

その方と共に歩みたい、などと思ってしまったのは、衝動的で、ご都合主義的な気の迷い、だとおっしゃるのですか?

よくよく考え直してみれば、その方の幸福こそを当初から、真実願っていたはずだと。

気の迷いが晴れて、いまは真実の願いがはっきり見えた、と。

・・本当に?

 

繰り返すようで恐縮ですが、ひとは、想い人を得たいと願うのが、自然の摂理。

至極当然のことなのですぞ。

・・森沢様、本当によろしいのですか?

もしも森沢様の呪いが成就し、その方に幸せが訪れて、その方が素敵な伴侶を得たとしても、そこにあなた様はいないのですぞ。

あなた様は、遠くでそのふたりを、眺めるばかり。

・・本当に、それでよろしいのか?

 

・・ふむ。その方の幸福こそが第一。

自分よりも相応しき者がその方の伴侶となってくれるなら、あなた様はその方のために、それを喜ぶことができる。

森沢様は、そうおっしゃるのですね・・

そう、ですか。

 

・・よろしい。

そこまでのお気持ちならば、よろしい。

ご紹介、差し上げましょう。

国分坂様も深海様も、よろしいか。

 

・・こちらが、佳い。

森沢様に今宵ご紹介さしあげるのは、「地蔵菩薩儀軌・他福の術」(じぞうぼさつぎき・たふくのじゅつ)の呪法。

そう、「地蔵菩薩儀軌・他福の術」の呪法にございます。

 

お約束

まずは、お約束にございます。

お約束をお守りいただけないと、呪法は効かないどころか危険極まりないものです。

ゆめゆめ、お約束をお忘れにならないように。

ゆめゆめ、お約束をお破りなさらないように。

 

全てのものは、大きな流れのなかを流れゆくもの。

一切合切、全てのものは、例外なくその流れのなかにあるのです。

われわれ生命は、その流れのなかで仄かな命の光を灯し、僅かばかりの音を奏で、他のものたちと響き合い、そして、消えていく。

大きな流れの中で、瞬く星のように、命の光を瞬時に灯し、また瞬時に消えていく。

僅かばかりの音を奏で、僅かに響き合い、やがて消えていく。

われわれの発する音は、ごくごく僅かなものに過ぎぬのです。

しかし、その発する方角により、よく響くこともあれば、まるで響かぬこともある。

そう、呪いとは、その発する方角を見極めて、佳き音がよくよく響くよう、導くものにございます。

大きな流れで小さく瞬く光に過ぎぬけど、灯消えたその後もしばらく余韻が残るよう、佳き音を心地よく響かせるのが、呪い。

効くも効かぬも流れ次第。

 

ゆめゆめ、悪しき音を響かせんことを。

悪しき企てもって、悪しき音を響かせんことを。

そう、人を呪わば穴二つ。

ゆめゆめ、忘れてはなりませぬ。

 

呪いとは、そのようなもの。

効くも効かぬも流れ次第。

 

それでもやると申すなら、もはやあなた様の求めるままに。

 

・・やりますか。呪いを。

・・わかりました。

では、ご伝授させて頂きましょう。

 

地蔵菩薩儀軌・他福の術(じぞうぼさつぎき・たふくのじゅつ)

この呪法は、他者に幸福を呼び寄せるための法とされます。

地蔵菩薩は、あらゆる界におわす菩薩。

地蔵菩薩は、浄、不浄を問わず、あらゆる者を救う菩薩。

他者の幸福を求めるのに、これほど適した菩薩はおりませぬ。

 

しかし、そもそも呪いというものは、おのれのために行うのが、本来。

おのれが発した佳き言の葉が、巡り巡っておのれに戻ってくることで、おのれに佳き音を響かせる、それが呪いの本来。

幸福とは、様々な色や形、音や響きを持つものです。

そして、ひとはひと。

その者のことは、その者にしかわからぬこと。

その者の幸福は、その者にしか分からぬ色や形、音や響きを有するもの。

あなた様の思う幸福が、その方にとっても幸福か、それは分からぬものなのです。

 

あなた様がその方を思う優しく温かい心音は、もしやその方にしてみれば、鬱々とし忌々しい声音を持つかもしれないのです。

そう、あなた様が佳きものとして歩かせた言の葉が、その方にとっては悪しき言の葉になってしまうかもしれないのです。

ひとはひと。どれだけ想ってみてしても、どれだけ接してみてしても、どこまで行けども、ひとはひと。決して交じ合うことのない、弧界に漂うのが、ひとの定め。

だからこそ、ひとは同化を求めて愛を尊ぶのでしょう。

しかし、求めてみても、決して同化はできはしない。

 

ときには、求める相手を苦しめましょう。

ときには、求める相手を傷つけましょう。

それでも行う呪いは、相手を苦しめ傷つけ得る呪いは、自分にも重く跳ね返ってくるものです。それが呪いの理。

人を呪わば穴二つ。

あなた様の想いも、相手の方の苦しみも、決して交じ合うことはなかれども、それが愛だと思い定め、ともに、しかれども別々の穴に、入る覚悟があるというのであれば、もはやお止めする言葉を、我は持ちませぬ。

 

・・如何なされるか。

覚悟は、おありか。

愛をもってその方に、あなた様の幸福を届けてしまうことのお覚悟は、おありか?

 

・・左様か。よろしい。

ならば、我も覚悟をもって授けましょうぞ。心して。

 

実践

あなた様が幸福を届けたいその方のことを、ここでは「想い人」と呼びましょうか。

古式にのっとるのであれば、その「想い人」の家の竈の土を取って参り、これを護摩して真言を唱えるのが、本式。

竈とは、まあ台所ですな。今時、台所の土を掘り起こすなどという芸当は、まあ、できませぬ。

なになに、そうであれば、「式」の本意を汲み取ればよいのです。

つまり、竈とは生活の根本をあらわすもの。

竈の土とは、日々の生活の残滓。

竈の土を取り護摩するとは、「想い人」の生活の根本・残滓すべてを見定め受け入れるために、土を煙にして吸い込み体内に取り込むということ。

それが本意、といえましょう。

よってあなた様には、我が工夫し今様の「式」をば、お授け致す。

 

三親九尋(さんしんきゅうじん)

 

「想い人の」、ごく親しい方を三人、まずはお探しなさい。

「想い人」のごく親しい人、「親人」と呼びましょうか。「親人」を三人探すのです。

そしてその三人の「親人」に対し、「想い人」が求めるもの、悩めるもの、困りごと、生きるうえで大切にしていることなどを、「親人」から一人ずつ、じっくり少しずつ、お聴きなさい。

その聴き取りは、「親人」一人につき、一節(三か月)ごとに九回。もしくは九つのお話まで。

つまり、「親人」一人から聴けるのは、ひと月に三回、もしくは三つのお話まで。

少しずつ、じっくりとお聴きなさい。

 

そう、「想い人」の幸せのために必要となるもの、幸せを阻む障害となりしものを、三人の「親人」から、それぞれじっくりとお聴き出し頂くのです。

そしてこれが重要なのですが、お話を聴く際には、くれぐれもあなた様の、「想い人」に対する気持ちを秘すること。

決して、愛するゆえに聴き出すなどと、思われぬようにご注意を。

あなた様の想いが混じれば、あなた様の佳き声音は、濁る。

濁った音は、ひとの心には響きませぬ。

あなた様の真摯な言の葉から出た佳き声音こそが、「親人」たちの心に響くのです。

そして響いた心音を持つ「親人」たちは、真摯に「想い人」のためを思い、「想い人」の日々の希望や悩み、そして生き方を、すなわち日々の生活の残滓と根本を、あなた様にお話くださいましょう。

 

そしてあなた様は、「親人」たちから聴き取ったそれらのことを、しっかりと脳裏に焼き付け心に受け止めながら、次の真言を唱えるのです。

 

おん かかか びさんまえい そわか

 

姿勢は安座(胡坐)でも正座でも結構。

印は諸説あるので、何を用いても、また用いなくても、結構。

印を結ぶのではなく、合掌でもよろしかろう。

大切なことは、親人たちからお聴きしたお話を、しっかりと脳裏に焼き付け心に受け止めながら、真言を唱えることこそ、肝要。

 

真言は、朝目覚めた後と、正午から日没までの間、夜の就寝の前に、一日三度、一度に九遍ずつ、唱えなさいませ。

 

そしてまた折をみて、「想い人」の希望や悩みにつき、あなた様で対処が可能と思われることは、勇気をもって、積極的に対処なさいませ。

真言はあなた様に、行動する勇気をも、与えてくれるものにございます。

しかし、決して「想い人」に、あなた様が対処していることを悟られませぬように。

あなた様が「想い人」のために行いし全てのこと、「親人」たちからの聴き取りやその対処、そして呪法を施していることなども、全て「想い人」に悟られてはなりませぬ。

秘すること。

「想い人」に、秘すること。

くれぐれも、ご留意を。

 

期間

先程もお話差し上げましたが、「想い人」の「親人」お三方より、じっくりとお話を聴いて頂きます。

三人の「親人」、お一人ずつから。

お一人につき、一節(三か月)ごとに九回。もしくは、一節ごとに九話。

すなわち、お一人につき、一箇月に三回。もしくは、一箇月に三話。

すなわち、三人につき、一節ごとに二十七回。もしくは、一節ごとに二十七話。

すなわち、三人につき、一箇月に九回。もしくは、一箇月に九話。

 

「想い人」の幸せのために必要となるもの、幸せを阻む障害となりしものを、じっくりとお聴きくだされ。

そして、聴き取ったそれらのことを、しっかりと脳裏に焼き付け心に受け止めながら、真言を唱えなさいませ。

真言は、朝目覚めた後と、正午から日没までの間、夜の就寝の前に、一日三度、一度に九遍ずつ、唱えなさいませ。

そして折をみて、「想い人」の希望や悩みにつき、あなた様が対処可能と思われることを、勇気をもって積極的に対処なさいませ。

 

なお、もしも「想い人」に、「親人」が三人おらぬのであれば、そのときには一人であっても二人であっても、結構。

その場合は、お一人もしくはお二人から、一節ごとに二十七回、もしくは、一節ごとに二十七話、一箇月に九回、もしくは、一箇月に九話、適宜にお聴きなさい。

さらに万が一、「想い人」が天涯孤独の身の上で、親しき者がひとりもなければ、これはもう、やむなし。

あなた様が、まずは「想い人」の「親人」に、成るしかありませぬなあ。

まずは「想い人」と交流し、信頼を築き親しくなって、あなた様が「想い人」の「親人」になるのです。

そして、あなた様は、あなた様から、聴き出すのでしょうなあ。

一節ごとに二十七回、もしくは、一節ごとに二十七話、一箇月に九回、もしくは、一箇月に九話、あなた様はあなた様から、「想い人」のお話を聴き出すのです。じっくりと、深く自分に潜って、聴きだすのです。

そして、真言を唱えなされ。

 

・・よろしいか。

聴きだし、心に受け止めながら真言を唱え、対処する。

それをまずは四節(十二か月)、繰り返しなさい。

四節の間、「地蔵菩薩儀軌・他福の術」を丹念に施しますと、「想い人」のまわりに、変化の兆しが少し現れましょう。

そしたら更に丹念に、四節。

森沢様の呪法により、「想い人」の環境が変化していく様が、見えはじめましょう。

そのうえ更に丹念に、四節。

「想い人」の環境は、目に見えて変化する可能性が、大。

十二節(三年)経ち、もしも佳き形に変化していれば、呪法は御仕舞。

しかし、変化なきときや、悪しき変化をもたらしている場合は、どうか呪文堂を訪れなさい。「想い人」に、もしくは森沢様に、何かよからぬものが憑いているかもしれませぬでな。

・・よろしいか。

  

先ほどご説明した「地蔵菩薩儀軌・他福の術」の真言を記したものを、ここにご用意致しました。

さあ、お持ちなさい。

ご心配事は、おありかな?

なにか、聴きたいことなどございますかな?

・・よろしいか。

 

国分坂様、深海様、おふたりは如何?

・・よろしいか。

 

では、これにて仕舞。

お帰りの道中、お気を付けて。

 

いえ。お代は不要。

国分坂様。深海様。森沢様をお連れ頂いたことは誠に感謝いたしますが、事前にご説明を頂きたいところですなあ。

呪文堂主人は、銭金は不要なのです。

そう、森沢様、お代は不要なのですぞ。

森沢様の想い人に、佳き風が吹くことになるとしたら、それで充分。

森沢様にご納得頂けたなら、それで充分なのです。

 

・・そうですか。

もしもお困りの方がいらしたら、ご紹介を頂ける、と。

それはそれは。それは有難きお申し出。

呪文堂主人には、最も喜ばしきお申し出でございますぞ。

いつでも結構です。

もしもそのような方がいらしたら、どうぞ、我が庵をご紹介くだされ。

 

では、ごきげんよう。

森沢様、深海様。

そして、国分坂様。

 

ー おん かかか びさんまえい そわか ー

 

終章

あいも変わらず、やはり奇妙な主人であった。

私は、心配だった。今回、呪文堂主人が示した呪法は、正解だったのだろうか?

私は森沢綾香の方を見た。森沢綾香はにっこりと笑った。

「国分坂先生、ありがとうございます。わたし、やってみます。教えて頂きましたお呪い、やってみます」

「・・あれで良かったのでしょうか?その、呪文堂の示したもので」

私がおどおどと訊ねると、森沢綾香ははっきりと応えた。

「ええ。わたし、本当に迷いからすっきりと、抜け出ることができました。わたし、やっぱり、あの方のために行動したいんです。それが、第一なんです。そのことが、わたし、分かったんです。ああ、すっきりしました!わたし、頑張ります!」

森沢綾香の心は、どうやら受け入れたらしい。

それが良かったのか悪かったのか、私には分からない。それは、森沢綾香だけが判断できることなのであろう。

私は、こっそりと美夜子の方を見た。少し考え込んでいるような表情だが、顔の赤みは消え、目の潤みもない。・・よかった、怒りは鎮まった様子だ。

と、美夜子がこっちに振り向き、目が合った。私は慌てたが美夜子はにっこりとほほ笑んだ。

「先生、ありがとうございました。とっても難しい問題だったのに、綾香さんもすっきりできたみたいで。先生、どうして呪文堂さん向きの問題だって、分かったんですか?」

私は首を横に振った。

「いえいえ、そんな、分かりませんよ。私などには分からないし、おそらく呪文堂にだって、確信があったわけではないかもしれない。この問題を呪いで解こうとし、呪いを受け入れて自身の心の迷いを解消させたのは、すべて森沢さんなのだと思います。・・うん、呪いとは、そういうもの、なんでしょうねえ」

私の言葉に森沢綾香は首を傾げた。

「・・えーっ、わたしがですかぁ?わたし、そんな難しいことは分かりません。でも、国分坂先生のお陰で、進むべき方向が見えた気がします。本当に、ありがとうございました!」

そう言って、森沢綾香は頭を下げた。

私は慌てて手を振って言った。

「いえいえ、私はなんにもしてませんし。なんだかピザもご馳走になってしまい、却って恐縮するばかりです。むしろ、なにかお手伝いできることがあれば、是非おっしゃってください」

私がそう言うと、森沢綾香は嬉しそうに言った。

「本当ですか?・・あの、真言、というのですか、それを唱えるのは全然問題ないですけど、親しい方を三人探す、というのが、大変ですよねえ」

そうなのだ。今回の呪法は単に何かを唱えるだけでなく、まずは親しい者を三人探し出し、その人達から聞き取りをしなければならない。これは、難題だろう。

美夜子も言った。

「そうよねえ。そこが大変よね。親しい人。親族とか、親友とかかなあ?」

「ええ。でも、その方、近しい親族はいないみたいだから。親友も、どうなのかわからなくって」

森沢綾香が応えた。そうなのか。最悪、天涯孤独、なのか。

「まだ分からないんですが。・・もしも万が一の場合には、国分坂先生とみよちゃんがその方の「親人」になってくれたら、とてもやりやすいんですけど~」

と、森沢綾香は笑った。なるほど、それはたしかに、やりやすかろう。

美夜子は「え~、ずるいよ~」と笑っている。

ずるいのか?ダメなのだろうか?・・たしかに私と美夜子は、森沢綾香がその者に対し好意を持っていることを知ってしまっている。呪文堂は、「親人」に話を聴く際は、森沢綾香の「想い人」への気持ちを秘するように、と言った。想いが出てしまうと、言葉が濁るからだと。言葉が濁ると、「親人」の心には響かなくなるからだと。

しかし、私と美夜子は、すでに森沢綾香の痛いまでの真摯な心を、充分に知っている。

森沢綾香のその者への想いを知っていても、私と美夜子の心は、森沢綾香の言葉にしっかりと響くであろう。

そう、懸命に、森沢綾香のために、その者と親しくなり、その者のために、その者のすべてを知ろうと努め、森沢綾香に告げようと努めるであろう。

それでは、ダメなのだろうか?・・

分からないついでに、私は森沢綾香に対し、ある疑問点を頑張って質問してみた。

「もちろん、万が一の際には、是非協力させて頂きますよ。ただその、そうしますと、私は森沢さんに、その、大切な方を教えて頂く必要が出てきてしまうわけなのですが・・それは、よろしいのでしょうか?」

私がそう言うと、美夜子が「あっ」と言い、森沢綾香は「ほらね」と言った。

・・なんだろう?「あっ」とは?「ほらね」?

美夜子が私を下から覗き込むようにして、言った。距離が近い。困る。

「先生、本当に、分からないんですか?だってさっき・・」

「え?なにが、です?」

「ほらね。みよちゃん。国分坂先生、分からないんだよ」

・・一体この二人は何を話しているのだろう?分からない?何が?・・森沢綾香の想い人のことか?しかし、その者を特定する具体的な話は出てなかったはずだ。私は記憶を辿ってみたが、・・間違えない、話に出てきていない。

私が呆然としていると、美夜子が嬉しそうに笑った。

「先生、大丈夫ですよ。先生は、それでいいんです」

森沢綾香も笑った。

「国分坂先生、ごめんなさい。でも、素敵ですよ」

一体、なんの話だ?本当に、訳が分からない。・・まさか、新たな呪いか?

 

混乱した頭で前を見ると、もう駅がみえる。北口だ。

美夜子も森沢綾香も楽し気に笑っている。

・・まあ、良かろう。なんだが訳が分からないが、森沢綾香も問題の筋道がついて納得出来たようだし、美夜子もご機嫌の様子なのだから、うん、大団円であろう。

しょうがないので、私も頭を掻きながら笑ってみた。

「まあ、よくわかりませんが、とにかく良かったです」

私がそういうと、ふたりの楽しそうな笑い声が夜空に木霊した。

そして、春を感じさせるような風が、吹いた。 

 

 

 

 

 

※すべては虚構にて、あしからず。

【参考文献】

・『日本呪術全書』豊島泰国/原書房